ぱた、パタ、PATAと、せわしない年度末です。
何かとんでもないことを忘れている様な気がして、不安です。
さて、
学校では、年度末に、さまざまな「誌」や「報」が出ます。
私が勤めている
件p学系をもっていて、美術と音楽の二つのコースで専門的な教育が行われています。
ですから、「誌」の表紙も生徒の描いた絵が使われ、素敵に表紙になります。
今日は
「岩手県立不来方高等学校図書館報 こずかた27」の表紙をご覧ください。
とても素敵でしょ!
3年生の立川目佳子さんの「遥」という作品です。原画は油彩F30。
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「誌」や「報」には、校長が何か書いています。
図書館報には
『巻頭随想』を寄せました。
せっかく書いたので、皆さんにも読んでもらいたくて、ここに丸写しをします。
お読みいただいて、ありがとうございました。タコだらけの心 校長 平藤 淳
自分の変化を知る尺度は何でしょう。
年齢、身長、体重、所属や職業、家族構成、趣味、スポーツテストの結果、全国模試の偏差値、健康診断の数値…さまざまなものが思い起こされます。自分の変化に一喜一憂、よく見られる風景です。
さて、本の話。
私の予想の範囲をはるかに超える考えに基づいて、したがって、私が予期せぬ主人公の行動で物語が締めくくられた本が、二冊、ありました。どちらも、私が高校生の時に読んだものです。
それから、四十年以上たった去年、もう一度、二冊とも読んでみたのです。しかし、あの時の感動は一切ありませんでした。もちろん、前に一度読んだ本ですから、ある程度の知識を持っての読み方です。当然、あの時の気持ちがそのままもたらされるはずはないのですが、それにしても(こんな話だったっけか?)でした。
物語は、全く、変わってはいません。
何が変わったのかというと、読み手の私が変わっているのです。でも、この変化は、冒頭にあげた尺度では、到底、測ることができない、とても複雑な変化でしょう。もはや元に戻ることはできません。読書でも、今は、感動を求めて物語を選ぶことはほとんどなくなり、納得を求めて実用書を読む傾向にあるのです。
しかし、不思議なことに、こんなに変わってしまった今でも、あの時の(ああ、なんで、そんなことを!)という気持ちは、なんとなく思い起こすことができるのです。
なぜだろうと考えてみました。
私の心の外側はタコだらけなんだろうなと思いました。海にいる蛸ではありません。刺激によって皮膚が厚く固まってしまう胼胝、小言を何度も言われた耳にできると例えられている胼胝です。
長い間の社会生活、職業生活で、多少のストレスは跳ね返してしまうタコだらけの心が出来上がりました。でも、引き換えに、感動する心はタコの裏に隠されてしまいました。なくなったのではなく、タコの裏には感動する心はちゃんとあるのですが、そこまで情報が伝わりづらくなってしまっているのです。
感動する心がもっとも活発な時期に、たくさん感動し、そのことを蓄積しておくこと…皆さんに読書をすすめる理由は、ここにあります。
五十年後に、皆さんが「感動の思い出がたくさん詰まったタコだらけの心」とともに活躍していることを、心から期待しています。
図書館報の中には、もっと素晴らしい内容がたくさんあります。
時期を見ながら、ご照会してゆきますね。