八幡平市のインカレはレースが成立するだろうか…
と、思いながらの雪かきで始まった日曜日。
街の中にいましたが、
特にご報告するようなことはない一日でした。
でも、
用事でとおりかかった、
岩手県の誇る平民宰相・
原敬の
墓所
「
大慈寺」の雪景色の山門の写真が素敵でしたので
お裾分け。
どうぞ、ご覧ください。
調べるとこの山門、
竜宮門といわれる大陸様式のもので、
1905年の建設当時の総工費は
約「2000円」だそうです。
私、どちらも、さっぱりピンときません。
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2月10日に宮古市でワークショップを受けてきたことは、すでにこのブログでお伝えしています。
「“物語力”を生かした情報発信」と題した、株式会社編集工学研究所の主任研究員・櫛田理さんのワークショップでした。
その関連で、
最近、編集工学研究所の
松岡正剛さんが監修する
「物語編集力」という本を読んでいました。
その中で、
倉田慎一さんという方が「ナレーター(語り手)」について
『物語という異界への誘惑者』と題してお書きになっていて、
「視点が変われば世界も変わる」という
小見出しでこのように語っておられます。
無礼は承知で、最後の2段を引用します。
あ、251ページです。
物語はこのように、誰のどんな視点で語るかによって変わってきます。たとえば『忠臣蔵』を演出するとして、吉良陣営の無名で位の低い家来をナレーターにしたとしましょう。この視点では物語の表層部分しか見えません。
なぜ自分の主君が狙われるか、その理由すらわからないかもしれません。知らないことは語れませんから、突然雪の日に四十七人の得体の知れない連中が主君を暗殺しにやってきた。そんなホラーのようなお話になるかもしれません。
誰をナレーターに設定するかが、物語の世界観を決めるといっても過言ではありません。描きたいワールドモデルにふさわしいナレーターを選ぶこと、あるいはナレーターの視点からワールドモデルを発想することが、物語に忘れがたい命を吹き込むのです。
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これまで、スポーツ界のナレーターは、スポーツ界の中にいました。
スポーツの論理で、スポーツの中から、外に向かって様々なことを発していました。
でも、
スポーツの論理をご存じない方々、あるいは疑っておられる方々にとっては、
(災害からの復興を優先しなければならないのに、
スポーツ界がごり押しして「希望郷いわて国体」を開催するらしい。
しかも、何やら「新しい岩手型」とかいっていたのに、人もお金も
普通の国体と同じように
しっかり使うらしい。)
と、受け取られるのでしょう。
きっと「吉良家の家来」と同じ感じがするでしょう。
これがわかれば、
2月13日に
岩手日報が「国体準備費2億9100万円 16年開催へ事業本格化」という見出しで報じた次の記事を(
この下線部クリックで読めます。リンク切れ用心の
画像はここです)
県が12日発表した2013年度一般会計当初予算案に、16年岩手国体の関連費用として開催準備費2億9100万円、選手強化事業費1億6千万円などが計上された。開催準備費が前年度から2億6400万円増額になるなど、新年度から本格的な事業が動きだす。
を読んだ方が「おかしい」と考え、
ご自身のブログで、
「平藤淳は震災復興をやらなければならない非常時だということさえ理解できず何の災害もないときのように能天気に順位のことを気にしています。」とご意見を述べられることは、
スポーツの外の方を「ナレーター」として物語をすすめれば、
おっしゃる通りで、当然のことです。
(原文は
ここにありましたが、すでにリンクは切れています。)
私は、こんな時がきっと来るんだろうなぁ…と、
このブログの中で「2011年5月
20日岩手県体育協会
評議員会」の前後の報道を見られるようにしてあります。
この下線部をクリックすると見られますので、どうぞ、今一度、「どんなことだったのか」を確認していただきたいのです。
たぶん、世の中には「吉良家の家来」の方々のほうが多いと思うのです。
こういう状況下において、私たちスポーツ界の人間は、
しっかりと、
私たちの「物語」を伝えながら、震災
津波前とは違った『方法』で「希望郷いわて国体」と「希望郷いわて大会」を「復興のシンボルとして」成功させねばならないのです。
さて、どういう『方法』をとりますか、あなたは。