ドナルドと撮るなど!
イオン盛岡ショッピングセンターのフードコートのベンチに
マクドナルドのマスコット、ドナルドが座っていました。
となりに座っていい?と聞きましたが拒絶しません。
となりに座りました。
写真とっていい?と聞きましたがやっぱり拒絶しません。
写真を撮りました。
ところで、
最初の文は回文ですが…気がついていただけましたでしょうか?
(どなるどととるなど)
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その後、岩手県柔道連盟の千葉翠会長の叙勲祝賀会に、光栄にも、呼ばれていましたので出席させていただきました。
だれも、褒めなかったはずですので、私が褒めました。
入場の時に、千葉会長と奥様が並んで入ってこられました。
会長は濃紺のダブルのスーツです。
奥様は着物です。
明るい色で、袖が長くありませんでしたので、たぶん、色留袖というのだろうと思います。
私の所を通り過ぎて後姿が見えたとき、
(おぅ!)
と思いました。
奥様の髪に鼈甲の「かんざし」がさしてあったのです。とても素敵でした。
日本の文化…だよなぁ、と、見とれておりました。
お酒をつぎに行きながら、ご夫妻にそのことをお話しました、果たして、どなたも「かんざし」には気がつかなかったようです。
よく気がつきましたねぇ…と、奥様に驚かれました。
聞けば、奄美大島にお友達がいて、その人の手になるもの、とのことです。
(色留袖はあるようだけれども、鼈甲のかんざしは持っていたかなぁ)
ちょっと、わが家のことが心配になりました。
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柔道で思い出しました。
武道の『マッピング』の話です。
内田樹さんが、その著書『私の体は頭がいい』の中で『非中枢的身体論―武道の科学を求めて』というものをお書きになっています。
無礼を承知で、少し抜き出します。(93ページから94ページ部分です。)
(…前、略)いまから三十年前、私自身が大学の空手部で稽古をしていたとき、先輩たちは私に繰り返し「バカになれ」と言い聞かせた。考えるな、言挙げするな、理屈をこねるな、いわれたとおりのことを黙ってこなせ、という伝統的な稽古方法こそがそこでは連綿と受け継がれていた。
「なぜこのような稽古をするのか、それはどのような技法的課題に対処するものなのか、これらの稽古をつうじて私たちはどこへ向かっているのか」という問いを発するものはそこにはいなかったし、もちろん答えてくれるものもいなかった。せいぜい、「次の***大会で何位以内に入る」というような日程的な目標が(ややパセティックな口調で)示されるだけだった。
しかし、それは私にはどう考えても「武道修行の目標」とは思えなかった。
私はその後もいくつかの武道を経験したが、稽古している現時的な技術上の課題の「意味」と、修行の究極の「目的」とを統一的な枠組みのうちで語ってくれる指導者に出会うことはできなかった。ときに「不動心」とか「心技体の一致」とか「剣禅一如」とかいう言葉で包括的な解答を試みようとする人もいたけれど、その言葉が技術的に何を意味するのか、人間としての生き方にどうかかわるのかについて私ははっきりしたことは分からなかった。
ここに欠けているのは、私たちが「今は修行上のどの段階にいて、どこへ向かっているのか」を理解させてくれる「マッピング」の言語である。
私がはじめて私を「マップしてくれる」言葉を聞いたのは、合気道の師、多田宏先生に出会ったときのことである。
多田先生は、「自分がどこへ向かっているか」を知らずに修行するものを「行き先を知らないで電車に乗っている人」にたとえた。行き先を問わぬまま何十年も厳しい稽古を重ねたあげくに、まったく武道的な目標から逸脱してしまうという悲劇は現に私たちの周囲にすくなくない。「次の試合に勝つ」とか、「同門の某よりもうまくなる」とか言う課題を持つことは、たしかに短期的には有効なインセンティヴとなるだろう。しかし、それは「相対的な目標」をめざす「相対的な稽古」にすぎない。そこには包括的な「武道についての知」「武道の科学」への志向がない。
多田先生から私が学んだ最も重要な知見は、武道の修行には「絶対的目標」たあり、そのための「絶対的稽古法」が存在するという確信である。
多田先生はそれを次のような言葉で語っている。(…以下、略)
「空手」や「武道」をご自分が関係されてきたスポーツに入れ替えてみてください。
身につまされる思いがしませんか?
私は、しました。