がんばろう!岩手のスポーツ

岩手スポーツ応援団長を勝手に名乗る平藤淳の個人的なブログです

39年前の挑戦�A

今朝の岩手山です。雪が、また、積もったようです。

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私は、2016年に岩手県で行われる第71回国民体育大会のスローガンを

『挑戦!いわて国体 〜140万の可能性〜』とすることに、勝手に決めました。

とは言うものの、

自分はスポーツをしない、そのうえ、家族のだれもがスポーツをしない、という環境にある人は何に挑戦すればいいのか…

どうせ、hirafujiのお得意「大風呂敷」だろうと思っておられる方々のために、

1970年(昭和45年)に岩手県で行われた第25回国民体育大会での岩手県の人たちの「挑戦」を、

「39年前の挑戦」と題して、数回、お伝えすることにしました。

岩手県体育協会業務課のブログに載ったものですが、載せた人の許可を得て再び掲載します(笑))

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39年前の挑戦(その2)

 大会旗・炬火リレーのャXターです。

  昭和45年9月26日(土)に

  中尊寺の『不滅の法灯』から採火された炬火(きょか)は

  一関市にリレーされ、大会旗と炬火が一関市を出発、

  12,965人が1,494.8kmを15日間でリレーし

  県内63市町村を巡回して

  10月10日(土)岩手県営運動公園陸上競技場に到着。

  炬火だけではなく大会旗も回っていたんですね。

今日は、たぶん県内最年長の炬火ランナー、矢巾町の金子フミエさんの「岩手国体は成功に終わった」をお読みいただきましょう。

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岩手国体は成功に終わった 矢巾町婦人消防協力隊 金子フミエ

 4月9日消防幹部会終了後、同本部から「大会旗炬火リレー矢巾町を通過するので、協力隊は参加してみませんか。」と言われた。その時はあまり気にも止めず引き受けた。

 その後、名簿作成して提出する運びとなった。大多数の人は農家の主婦である。

 5月中旬頃になって農作業中、「電話だよ。」と言われて出た。朝日新聞からのインタビューで、いろいろ話しているうち「県では婦人の大会旗・炬火リレーの出場を歓迎しています。」との話までは大変嬉しかったが「あなたが最高年齢なそうで…。」と言われたときは思わず「ドキリ」とした。今までは年令にこだわらず協力隊として活動してきたが、今こうして年令を出されると「私としてもこれでよいのか、若いものとの大差がついては…。」と、しばし思い悩んだが、「成せば成る、今までもその心構えでやってきたではないか。」と自分で自分に言い聞かせた。

 待ちに待った本番がきた。子供たちに「かあさん、からだの調子は良いの、がんばってネ。」と励まされ現場に急いだ。空はあいにくの曇り空だったが、私の心は晴天だった。「何とか責任を全うしなければ…、そして私のこの手で国体を成功に導かなければ…。」と、ひしひしと責任の重大さを身にしみて感じた。みんなも顔も晴れやかで「ほっ」とした。大会旗・炬火の到着を待つ間、時間は短かったがものすごく長く感じた。沿道にはすごい人垣ができたが恥ずかしさも何も忘れてしまい、ひたすら「責任を全うしよう。」という気持ちだけでいっぱいだった。

 「位置につけ」の号令がかかった。「ひとりの落伍者もなく無事大会旗・炬火を送り届けられますように。」と心の中でお祈りした。「さあ、私たちの番ですよ、子供たちに負けないように頑張りましょう。」と誰もがそのような考えを持ったことでしょう。仕事の疲れもいっさいふっとんでしまい、国体成功へと一歩一歩力をこめて走り始めた。

 「イチ、ニ、イチ、ニ」と号令をかけ、足並みを揃え、鰍ッ声はしだいに力強く大きくなっていった。「これが今まで農作業に従事していたおかあさん方か。」と思わせるほどの元気の良さ、沿道は拍手で迎える人波…、本当に嬉しかった。

 「お願いします。」と引継ぎを終わり責任を果たした。同時にわいてくる人生最良の感激と喜び…。県民あげての国体に私たちも参加したのだ。涙が出るほど嬉しかった。約二ヶ月のトレーニングが、今ここに実を結んだのだ。