短期的な記憶を問う試験 いま、日本の教育界のもっとも大きな課題の一つは、子どもたちの長期的な記憶に関する部分だろうと私は考えている。 かつて「分数のできない大学生」という言葉が話題となった。しかし、これは言葉として正確を期すなら、少し間違っている。「分数のできない大学生」ではなく、「分数を忘れてしまった大学生」と言わなければならない。本当に分数ができなかったら、その学生は進級、進学ができなかったはずだから。 問題は、これまでの日本の学校教育のシステムは、この「短期的な記憶」しか問うてこなかったという点だ。分数は期末試験までできればいい。英単語は大学入試まで覚えていればいい。学校での学びと、社会で有用な知恵が、ほとんど連結をしていなかった。 もちろん、そのような試験にも意味はあったのだと思う。そこで問われていたのは、おそらく「学力」ではなかった。そこで問われていたのは、「従順さ」と「根性」だった。 教師から、「期末試験に出すから、教科書のここからここまでを覚えてこい」と言われて、それを素直に履行する従順さと、それを時間内に覚えきる根性が問われていた。そして、それは、確かに無意味なことでもなかった。高度成長期には、そのような従順で根性のある産業戦士こそが、国家から求められる人材だったのだから。 第一章でも指摘したように、工業立国においては、「ネジを90度曲げなさい」と言われたら、90度、あげる正確性とその能力が求められてきた。 しかし、付加価値(人との違い)が利潤を生むサービス業中心の社会においては、90度曲げる能力、いわゆる従来の基礎学力に加えて、60度曲げてみようという発想や勇気、あるいは「120度曲げてみました、なぜなら…」と説明できる表現力やコミュニケーション能力がより重要視される。 ここでは、短期的な記憶を問うだけの従来型の学力試験をくぐり抜けてきた人材が有用とは限らない。現在、学力や学歴と、企業で個々人が発揮する能力にずれが出てきているのも、この点に由来している。 (わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書))********** 「学ぶことをやめたら、教えることをやめなければならない」 ロジェ・ルメール(元フランス代表監督) ********** 平田オリザさん、来週、盛岡に来るんです。 詳しくは、ジョブカフェいわての⇒『6/4「若者ミライ会議」 開催のご案内』で。
学ぶこと
私の職場はビルの10階にあります。
朝の10階のエレベーターホールや廊下は、良い気持ちです。
すれ違った人たちが、たとえ知らない人とでも「おはようございます」と挨拶を交わします。
でも、気がつきました。
1階のエレベーターホールやエレベーターの中では、誰も挨拶をしないのです。
なぜだろう…。
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昨日の夜もセミナーに行ってきました。5回シリーズの2回目。
とても勉強なる内容なのですが、
特に「相手(相手の話)を論理的に理解する」ということでした。
テキストにはこうあります。
「思考(論理)の相互作用」
目的や行動の論理的な理由付けをしながら、理解しあうコミュニケーション
「要約」がキーファクターとなるのですが、このことを意識して他の方のお話を聞くと、考えていることがよくわかります。知らなかったテクニックです。
それはさておき、
昨日は、4人のグループに入りました。前回は5人グループでしたが、今回のメンバーは全員が変わっています。
現役の看護師がお二人、以前看護師をしていて今は介護施設の施設長をなさっている方、そして、私、の4人グループ。
みなさん、
(このままではいけない…)
という認識に立って、自分のスキルを高めるために、盛岡市外からお見えになっているのです。
しかも、このセミナーは、ファシリテーション講座ですから、自分がスキルアップすることで組織の力や他の人の力を高めようという目的で参加なさっています。
素晴らしい方々です。
看護を必要としている方々や、介護を必要としている方々のために、お金も時間も「自腹」で、スキルアップしにやってくる人たちがたくさんいるのです。
でも、残念ながら、
このような場で、私は、子どもたちに、直接、接している「教員」の姿を見たことがありません。
なぜでしょう。
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平田オリザさんの著作から、無礼を承知で、抜きます。