毎年十二月に京都清水寺の舞台で「今年の漢字」をご染筆される 音羽山清水寺貫主 森 清範猊下は岩手県の「希望王国いわて文化大使」でもあり日頃当県のために御尽力頂いております この度の東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県の復興を願う森貫主が自ら選ばれた岩手県の人々を励ます漢字一文字を「今年の漢字」と同様に御染筆下さいました 復興へ向けての力となれば幸いです森様、川徳様、ありがとうございます。 ********** 昨日、携帯電話を家に置いて仕事に出かけてしまいました。 (大変なことになっているだろうな…) と家に帰って確認すると、メールが1件だけです。 今日も、携帯電話は、一日、黙ったままでした。 考えてみると、「いい話」で携帯電話が鳴ることは、百度に一度もないような気がします。 (鳴らない方がいいのかな…) ***** 昨夜、読んでいた本に、こんな記述がありました。株式会社 川徳
完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、 除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。「機械の完成」についてのお話でしたが、なるほどなぁ…と思いました。 ほとんど鳴らない携帯電話を取り除くことに不安を持っている私の「完成」はまだまだなようです。 ********** 除去すべき何ものもなくなったとき… 誤解を招きそうな表現ですので、そろそろ「許されざる矛盾」に終止符を打とうと思います。 5月1日付けのその記事で、私はこう書いています。
今、私は自分に矛盾があることに気がついています。 3月28日には「誰のため、何のため」という記事で、「(北東北総体は) 『日本の高校生のため』『心身ともに健全な青少年を育成するため』に開催する 大会」 と確認したうえで、 「(北東北総体を) 何らかの屁理屈をつけて「復旧・復興のため」と衣替えをしなければいけない のではないか」 という気持ちを、正しくないものとして否定しました。 しかし、 4月2日には「5年後に見たいもの」、 4月17日には「5年後に見たい�U」という記事で、 あからさまに、 「復旧・復興のマイルストーンとしての国民体育大会」を開催したいという夢を語っています。 この矛盾は、私の全人格を否定されるべきほどの矛盾です。 全国高校総体と国民体育大会に、「なんのため」の相違があってはおかしいのです。さらに、 5月15日の記事、「整理�Eコアバリュー」では、次のように書いています。
国民体育大会のコアバリューはスポーツだろう! という考えが浮かんできました。 復旧・復興の「おかず」として国体を開催するべきではない。 レベルの高いゲームで選手の皆さんが競いあうこと、 そして、 レベルの高いゲームの中での岩手県選手の活躍を皆さんにお見せすること、 さらに、遺産として、岩手県の競技者のレベルを高めるシステムを残すこと、 これが、国民体育大会の「肝」だろう。 したがって、私のスタンスは北東北インターハイと同様に、 「純粋に岩手のスポーツ振興を図ることを第一義として開催されるべきである」です。********** 2016年の第71回国民体育大会の岩手県開催に関しては、様々なご意見があります。 私は、全く個人的に、こういうスタンスをとりたいと考えます。 �@国民体育大会本来の目的を達成するためには、 「災害復旧・復興の旗印」などの「他の価値」を付加するべきではない。 �A「他の価値」を求めるために、 国体の本来の目的を達成できないことが予想される「大会の縮小・会場分散」を 行うべきではない �B同様に、復旧・復興に力を尽くさなければならないこの時期に、 国体の本来の目的を達成できないことが予想される「準備の縮小・省略」を 行うべきではない �C結論は、 開催時期の延期を日本体育協会・文部科学省に申し入れ、 前述�@・�A・�Bの意味で、開催基本方針に対して「なにも足さない。なにも引かない。」つまり 「ピュアな国体」を岩手で開催するべき…です。 ********** これまで、8回にわたって考えてきた「国体震災矛盾整理 」シリーズも、今日で、一旦、終わりにします。 でも、また変化があるかもしれません。 全くの個人的な考えです。ご批判をお願いします。