Got new perspective about "Individual model" and "Social model".
At the seminar of Para-sports.
昨日はこれを聞きに行ってきました。
2019年度
障がい者スポーツ特別講演会
「
パラリンピックの役割を考える〜教育・メディア・政治の視点から」
(詳しいなかみは、チラシ→
Link)
東京大学の星加良司先生の基調講演で気がついたのです。
資料を丸写しします。
***まる写し1、開始***
鍵になる考え方としての「社会モデル」
●障害の個人モデル/医学モデル=障害者が経験する困難は、
その人が(不幸にも)持ってしまった機能障害によってもたらされているという考え方。
→障害者はそうした困難を克服する努力を行っており(あるいは行うべきであり)、
それに応じて周囲の人々も理解・協力・支援しており(あるいはすべきであり)、
それによって社会参加も可能になる。
●障害の社会モデル=障害者が経験する困難は、その人にある機能障害によって生じているのではなく、
周りの環境や制度、ルールなどが
障害のない人(多数派)の都合に合わせて作られていることによって生じているという考え方。
→社会的障壁を取り除く(社会の偏りを是正する)ことが必要
***まる写し1、終了***
なになに!?と思ったのです。
私は、「障害の社会モデル」という言葉を、生まれて初めて聞いたのです。
(なるほど、
そういえば
「多数派」が作った制度が「当たり前」で
そのとおりに世の中が動いているよなぁ)
でも、まだ、ピント来なかったのです。
***まる写し2、開始***
鍵となる考え方としての「社会モデル」
●「障害者の村」の寓話【ワーク】
次の「 」内を書き換えて、社会モデルに基づく文にしてください。
・Aさんは、「視覚障害がある」ために、ひとりで目的地まで行くことができません。
・Bさんは、「視覚障害がある」ために、研修の内容を理解することができません。
***まる写し2、終了***
「障害者の村」は
フィンケルシュタイン(Finkelstein)という人が作った寓話ということでしたが、
星加先生の説明を私が聞いたところでは、こういうことでした。
◇
車いすユーザーが人口の9割の村がある
◇その村の特徴は、どの建物も
車いす生活にあわせて作られているため、屋根が低い
◇少数派の「健常者」は、建物に入る時、建物の中にいる時には常に腰をかがめていなければならない
◇そして、健常者は頭をぶつけたり、腰を痛めてしまったりして、病気なってしまう
◇これは大変、何とかしてあげようと対策を講じ
◇健常者にヘルメットを配ったり、
車いす生活を勧めたりする
そして星加先生はこうおっしゃいました。
困難は、
身体が動くかどうかが問題ではなく
だれにあわせて社会をつくっているのかということに起因して発生しているという、たとえです。
(参考:フィンケルシュタイン[Finkelstein:1981]は寓話の中で障害者の村においては「健常者」が「障害者」に変化してしまうことを描いて「社会モデル」を説明した:星加良司→Link)
ワークは時間の関係でしょう、行われませんでしたが、
ここまで聞けば「 」内を書き換えることは可能です。
東京で
パラリンピックが行われる年に、
新しい考え方、ものの見方が身についたのです。
ありがたい
セミナーでした。
***
そして気がついたのです。
中学生や高校生を中心に、スポーツ活動の在り方が、今、話題にのぼっています。
転換期なのです。
何から何への転換期かといえば
学校の部活動中心のスポーツ活動から、
学校の部活動と学校外のスポーツ活動の並立へという転換期です。
それは、
学校の先生方の働き方を変える、
学校の生徒の「やりたいこと」を保証するという理由です。
これまでの
私の「スポーツ活動改革」の解像度は、実は、低かったということに気づきました。
「個人モデル」も「社会モデル」もごちゃまぜでした。
さあ、
オリンピック・
パラリンピックイヤー。
ますます解像度を高めてゆきましょう!