本屋さんで、旅行でお見えになったらしい女性が、連れの女性にこういいました。
『ほらほら、わんこ三兄弟!』連れの方はこういいました。『かわいい!』
わんこ兄弟は5人じゃなかったかなぁ…と、よく見ると「こくっち」が下にいましたが、「うにっち」はいませんでした。
彼女たちの中では
「だんご3兄弟」と「わんこきょうだい」が合体してしまったようです。
でも、
「わんこきょうだい」の
知名度は割と高いようですね。
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昨日の研修会の様子を、
岩手県の新聞・
岩手日報が記事にしてくださっていました。
ありがとうございます。
昨夜、
私の考えがうまく伝わったのか、あれはこうするべきではなかったか、これはああするべきだっただろうな…という不安と反省で、何回か目を覚ましてしまいましたが、上手にまとめていただいた記事を見て、安心しました。
伝わっていたようです。
もしかすると、新聞記者の方が足りない分をおぎなってくださっているのかもしれませんが…(笑)
国立スポーツ科学センターの山下修平さんの講演もまとめていただいていました。
その記事を読ませていただいて、思い出したのです。
何度かこのブログで記事にしていた
「マッピング」や
「ロードマップ」に関連した、
またまた、
内田樹さんの文章です。無礼とは存じますが、とんでもなく長く抜き出します。
(街場の教育論、
内田樹、ミシマ社、「第3講 キャンパスとメンター」p.57〜59)
学ぶものに「ブレークスルー」(breakthrough)をもたらすのがメンターの役割です。
「ブレークスルー」というのは、教育的な意味においては、「自分の限界を超えること」です。
「自分の限界を超える」。言葉は簡単ですけれど、それほど生やさしいものではありません。というのは「これがオレの限界だ」と言ってすらすらと記述できるようなものは「自分の限界」とは言われないからです。それはただの「欠陥」や「不調」にすぎません。欠陥が改善されたり、不調が修復されたりしうるというのは、「改善後」「修復後」のデザインがあらかじめ頭の中でできているからですね。「改善前」に頭の中で考想しうるようなものは「限界」とは言いません。
ブレークスルーという言葉から、みなさんはつい、「枠組み」に捕えられていた人が、その壁を打ち破って、外に飛び出す………という図像を思い描いてしまうんじゃないかと思います。でも、それはブレークスルーではないんです。残念ながら。
というのは、「脱獄」のメタファーで考えたら、「枠組みに捕えらえた人」と「破って出た人」は結局、同一人物だということになるからです。多少手足の自由は増し、可動域も広くなったにしても、「ああ、ようやく自由になった」と言っている「私」が「檻の中」にいた時の「私」と同じ目線、同じ価値観、同じ言葉づかいでいる限り、それはブレークスルーとは言われない。
ブレークスルーというのは、喩えて言えば、日本地図しか持っていなくて、その地図上の自分の街の場所しか知らなかった人が、突然、東アジアの地図を差し出されて、「君の街はここだよ」と指し示されたような気分のものです。
突然、あたりが開けたような感じがする。自分がどこにいて、どういう役割を果たしているのか、果たすべきなのか、それがそれまでとは違う、もっと広大な文脈の中で位置づけられる経験。それがブレークスルーです。それは、脱獄して、自由になったという感覚とは別のものです。
脱獄者は壁を破っても同じ地面の上を、同じ目の高さで走り続けていますけれど、ブレークスルーというのは、自分自身を見つめる「視点」が急激に高度を上げることです。自分自身を「それまでより広い地図の中で」、つまり「それまでよりも高い鳥瞰的視座から」見返す経験のことです。
そのとき、自分をこれまでとは違う倍率でみつめている想像上の「鳥瞰的視座」のことを「メンター」と呼ぶのです。
ですから、それは厳密に言えば「ひと」ではありません。「私を高みから見ている機能」なのです。
ここからが大切です。長いのですが、もう一息、読んでみてください。
ここまでの話で私が何を言おうとしてるのか、もうみなさんにはだいたいおわかりになっただろうと思います。
「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。この「巻き込まれ」(involvment)が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあるということを認めなければいけません。
自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増えるかもしれないし、技術も身につくかもしれない、資格も取れるかもしれない。
けれども自分のいじましい「枠組み」の中にそういうものをいくら詰め込んでも、鳥瞰的視座に「テイクオフ」(take-off、離陸)することはできません。
それは「領地」を水平方向に拡大しているだけです。
「学び」とは「離陸すること」です。
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中高指導者連携協議会…という研修ですから、
成長に合わせたスポーツ指導の在り方、や、運動部活動と選手強化の連携方策、や、連携を図るための指導プログラムの作り方、などという内容を期待して参加されたことでしょう。
しかし、
実は、その期待も『自分の「ものさし」』の中でのものであるわけです。
今、岩手のスポーツを離陸させないと、そのまま滑走路を走って行っても海に落ちてしまうような気がしています。
昨日の私の説明の最後のスライドを覚えていただいていますか?
時間の関係で映すだけにしましたが、タイトルにこう書いています。
“Onde a terra acaba e o mar começa”
ユーラシア大陸の最東端、ャ泣gガルのロカ岬にある、ャ泣gガルの詩人
ルイス・デ・カモンイスの石碑に刻んである言葉だそうです。
日本語に訳すと
「ここに地終わり 海始まる」。
こんな場面では、視点を変えて新しい発想を生み出し、
空を飛ぶか、船に乗り換えることで、まだまだ、進んで行けそうな気がしています。
一緒にがんばりましょうね。